【泡雪】


【泡雪】
短編/シリアス/流血・遺体描写あり
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【言葉】
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【かすていら】


 
【泡雪】

 
 その日は雪が降っていた。

 
 降りしきる雪が高らかな太陽を隠し、視界を暗い白色に染め、雪上のおびただしい足跡と死んだ兵士や馬を静かに埋めゆく中、武士・積山信二郎重時(つみやま しんじろう しげとき)と、その手勢10名が、1頭の馬を伴い、雪に消されはじめた足跡を逆行して、白く凍りついた森の小道を歩んでいた。

信二郎
「六郎(ろくろう)。与左衛門(よざえもん)は?」
 歩きながら、すぐ左手を共に進む同年代の武士に話しかける。息は白く濁(にご)り、足元に積もる雪は、歩くたびに乾いた粉を握りしめたような音を立てて踏み固められ、刺さりそうな寒さのそよ風が全身の肌を静かに引っ掻いてゆく。

六郎
「まだ戻らぬようです。……敵の残党狩りに襲われでもしたのでしょうか」
 六郎が話している最中、方角も分からぬ遠方で火縄銃の銃声がいくつか響いた。

信二郎
「うむ……だが、何かあれば合図を出す手はずになっている」
 銃声の残響は冷淡な風雪の中に消え、雪で青白く染まる枯れ木の森は、生気のない静寂を取り戻していた。

 
 中央では室町幕府が歴史に幕を閉じたばかりだった。
 地方ではこの年も戦が絶えず、誰もがこの凍える風雪の中のような先の見えない争いに身を投じていた。
 信二郎の積山家は、それなりに高貴な神職の家系ではあったものの、村ふたつを治めるだけの城無し小領主だった。だが武士である以上、この戦国の世とは無縁ではなく、積山家の当主(とうしゅ。家の長)の子である信二郎も、父と共に戦に参じてこの地にやってきていた。

六郎
「信二郎様、与左衛門が」
 左にいた六郎の声に顔を上げると、やや貧相な風貌の足軽がひとり、こちらに走り寄って身をかがめた。斥候(せっこう。味方よりも先行してひそかに敵の存在や地形を探る役目の兵士)に出ていた与左衛門だ。
 与左衛門が報告の言葉を述べる。

与左衛門
「あの山の向こうは小さな窪地(くぼち)となっており、そちらに左門(さもん)様とその手勢を確認いたしました。崖を盾にして、追っ手と鉄砲や弓矢を撃ち合っております」
 左門は信二郎の父で、積山家の当主である。
 信二郎は父の生存を聞いたとき、冷気の風がわずかに弱まった気がした。一方で左横に立つ六郎が顔をわずかに曇らせたのも感じた。

信二郎
「追っ手の数は」

与左衛門
「あの山の崖を越えた先にいるようで、数はわかりませんでしたが、こちらより多いものと思われます」
 与左衛門は十数年前に、半分行き倒れた様子でふらりと村にやってきた男だった。
 素浪人にしては読み書きと礼儀を知っていたため、最初は誰もが怪しんだが、やがて父左門をはじめとした積山家の中心人物たちが、与左衛門は敵方の忍びの類ではなさそうだと察すると、放棄されていた田を与えられて村の一員となり、戦では積山家の足軽として働くようになっていた。
 与左衛門は信二郎の手勢に戻り、手勢の人数は信二郎を含めて12名となる。

 
 与左衛門の足跡をたどり、父がいるとの報告を受けた方へ歩き始める。
 信二郎は、敗走の途中で雪に惑わされてはぐれてしまった父と合流するために、味方の兵が逃げたものと思われる道を見つけて逆行していた。
 だが信二郎の手勢に火縄銃は2丁しかなく、ここで敵に撃ちかけられれば反撃のしようがなかった。
 深さを増しつつある雪の中を歩き出してすぐ、左横の六郎が足を止めた。信二郎も立ち止まり、振り返って六郎に話しかける。

信二郎
「どうした」
 信二郎に声をかけられた六郎は視線を少し下に落とし、寒さのためか、やや震えた声で答えた。

六郎
「……あの山を越えれば敵との交戦は避けられません。我々だけでも帰りましょう」
 雪巻く風が二人の着物を揺らし、顔をつたう冷水を一瞬凍らせる。

信二郎
「滅多な事を言うんじゃない。……行くぞ」
 振り返って再び父を目指す。

六郎
「……これ以上……!」
 引き止めるように六郎が続け、信二郎は再び立ち止まった。

六郎
「これ以上進めば敵に囲まれてしまいます。もう左門様と……わが父上達は手遅れでしょう。信二郎様、信二郎様は左門様からあれほどの扱いを受けたのに、それでも……」
 六郎の言葉に力と怒りと悲しさがこもりはじめる。

信二郎
「……」

 
 父の手勢27人の中には、信二郎の父のみならず、信二郎の弟と六郎の父もいた。
 戦の準備段階では積山家の内外で多くの者が勝利を信じていたため、積山家は勝ち戦に加わって箔付けをすべく、一族郎党の主要な者がみな参陣していたのだ。

 
 この戦は、敵対する大名の内紛につけ込んで、敵の中の裏切り者を味方にして相手の城に攻め込んだものであり、信二郎ら積山家の兵力39人を含む味方の軍勢も、その数が1万に達するとすら噂される大軍であった。
 それほど有利な状況で戦を始めたものの、いざ戦をしてみれば、味方の指揮官達が内輪で揉め、攻めた敵城も予想以上に堅く、さらに背後の城が敵に寝返るという事態にまで見舞われた。そうして進退きわまった大軍を突如として大雪が襲い、動けなくなった大軍は敵の総攻撃を受けて散り散りに敗走してしまった。
 この混乱の中で積山家勢も味方とはぐれ、積山家勢自体も父と信二郎の手勢に分かれてしまい、それぞれが雪の山中で孤立する事となった。

 
 一足先に退路を発見した信二郎らは、ほぼ同時に父の手勢を見つけて合流に向かっているところだった。ここで信二郎らが退路をとれば父の手勢の命運は尽きる事だろう。

六郎
「……それでも助けに行かれると言うのですか? もう信二郎様が積山家の新しい当主になって……」
 『父を見捨てましょう』とは直接言わないまでも、それを六郎が言わんとしている事は信二郎も汲み取っていた。

信二郎
「よせ」

六郎
「しかし……!」

信二郎
「六郎の言いたい事は大体分かる。だが助けに行くというのはもう決めた事だ」
 信二郎は言葉を詰まらせた様子の六郎から視線をそらし、父を目指す道を足早に進み始める。
 六郎も不服そうな顔をしながら信二郎に歩みを合わせた。

 
 信二郎は長男だったが、母は農民だった。母は信二郎の元服(げんぷく。10歳から20歳ごろに行われた成人の儀式。元服すると名前が変わり、正式な名前となる)を待たずに他界していた。
 信二郎が生まれた7年後、父は主君の娘と政略結婚し、その娘との間に男児――信二郎の弟――を授かる。主君は日の本でも有数の大大名の重臣であり、村2つを領有するだけの小さな在地領主の積山家にとって、その主君と血縁がある子というのは、一族の存亡にかかわる存在だった。

 
 そのため、父は積山家の後継ぎをその弟に定め、弟が元服した際に積山家の長男が代々名乗る「信一郎」という名前を与えた。長男である信二郎の名前に「二」の字が入っているのはこの為である。父左門もかつては「信一郎」を名乗っていた。
 諱(いみな。普段は使わない書類上の名前)も、父左門が「頼高(よりたか)」、弟信一郎が「長高(ながたか)」と、「高」の字を受け継いでいるのに対し、信二郎は「重時(しげとき)」という、積山家の家系から外れたような名前にさせられていた。
 弟の「積山信一郎長高(つみやま しんいちろう ながたか)」という名前は、積山家の伝統からすれば、本来は信二郎に対して与えられていたはずの名前だった。

 
 弟が産まれてからというもの、信二郎に対する父の冷遇ぶりは、名前に留まらず、あらゆる場面で露骨に現れるようになった。もともと無愛想だった父との会話の機会はほとんどなくなり、鎧兜も、弟には新しい立派なものが与えられたのに対し、信二郎に与えられたのは戦場で死んだ敵から剥ぎ取った古いものだった。
 弟を盛り立てて後を継がせたい父にとって、自分の存在は邪魔であり、出来る限り目立たせたくないのだろう。信二郎はそう悟っていた。
 また、そのような姿を見ていた他家の人々は、いつしか『兄の信二郎は頭が悪くて怠け者で、弟の信一郎は頭が良くて働き者なのだろう』などと噂するようにもなった。

六郎
「……」
 六郎の父は信二郎の父に仕えていた。六郎も信二郎と全く同じでは無いにしろ似たような境遇だったため、子供の頃から話がよく合う親しい仲となり、成人する頃には愛し合うようになっていた。それゆえに六郎は、信二郎が父を助けに行こうとする事に納得が行かない様子だった。
 信二郎は六郎の気持ちを察し、歩きながら六郎に語りかけた。

信二郎
「……前に話したと思うが、私は一度、父上に命を助けられているんだ」

 
 その日も雪が降っていた。
 弟が生まれてしばらくした頃、信二郎は雪の日に一人で遠出して山で遭難しかけたことがあった。
 そんな日になぜ遠出したのかはあまり覚えていないが、複雑な年齢の時期に人前で父から露骨に無視されるようになった事で反抗心が強く沸き、その感情に後押しされた事はおぼろげに記憶していた。おおかた何かの怒りに任せて屋敷を飛び出したのだろう。

 
 だが子供一人の無謀な遠出は道を見失う結果となり、雪に埋まりかけて立てなくなった信二郎は、やがて子供ながらに死を覚悟する事となった。その時、父が一人で信二郎を助けに来たのだ。
 信二郎は助けに来た父に断りや怒りの言葉をいくつかぶつけたが、父は無言で信二郎を背負って安全な場所へと移り、天気を見計らって下山し、信二郎を屋敷に戻したのだった。

信二郎
「一度助けられたのだから、こちらも一度は助けるのが筋だと思ってな」
 信二郎の言葉を受けた六郎は、顔に悲しそうな感情を残しつつも、半分納得した様子で黙り込みながら歩みを進めた。

 
 父のいるという小さな山に近付くにつれて、雪の中に響く銃声が増え、音のする距離も近付いて来ていた。
 山を登る途中、山のふもとの付近に30人ほどの敵部隊がいるのを遠くから確認し、見つからないように慎重に山を超えた。

 
 山を登り切った所の小さな窪地には、果たして父の手勢がいた。
 敵の残党狩りにやられたのか、27人いた父の手勢は18人に減っており、その18人も半数が負傷しているか、あるいは死んでいた。
 その中のなんとか動ける者で、3丁の火縄銃と1張の弓で、人の半身が隠れる程度の高さの崖を盾にして交代で敵に向けて撃ちかけて牽制し、どうにか敵の前進を阻んでいる状況だった。

 
 負傷者の方を見ると、弟の信一郎が鎧を脱がされた状態で手当てされている姿があった。この弟が足を負傷して歩けなくなったために、父らはこの場所に釘付けにされているようだ。
 ここに来る前の与左衛門の報告の中には弟の事が無かったが、おそらく弟が鎧を着ていなかったので、遠目には存在がわからなかったのだろう。
 山のふもとから弓矢や鉄砲でこちらを攻撃してきている敵は、目測で40人はあり、このままでは全滅をまぬがれなかった事は明白だった。
 父左門は信二郎の姿を見るなり焦った様子で立ち上がった。

左門
「信二郎……!?」
 父は少しの間をおき、声を荒げて二言目を発した。

左門
「……なぜ来たんだ、戯け(たわけ)め!」

信二郎
「急なお目通りにはお詫び申し上げます。……しかしなぜ来たと申されましても、父上がここで孤立されていたのですから救援に参らぬ訳にはいかぬでしょう」

左門
「何が救援だ! 我らは今、このまま逃げる途中で無様に死ぬくらいなら少しでも華々しく散ろうと、敵に斬り込む所だったのだ! お前の手勢ごときではどうにもならん事も分からぬのか! 死ぬ者を無駄に増やしただけではないか!」

信二郎
「父上はそうお考えでしょうが、それを我らが知るすべはございません!」

左門
「黙れ! ここでお前の顔など見たくもなかったわ! 今すぐ引き返せ!」
 父の言葉を聞いた信二郎が言い返す言葉を考えようとした時、六郎が進み出て父の前に片膝をついて言い返した。

六郎
「おそれながら左門様、信二郎は息子として左門様を救うために参っております、それは助けに来た者に対するお言葉では……」
 啖呵を切りかけた六郎だったが、その言葉を近くにいた六郎の父の平馬がさえぎった。

平馬
「やめんか六郎! 余計な口を出すんじゃないッ! お前こそなぜ信二郎殿を止めなかったのだ!」
 討死(うちじに。軍人が戦場で敵の攻撃によって死ぬこと)した者の中には平馬の息子、六郎の兄と弟がいた。3人の息子のうち2人を一時に失った平馬は半分我を失った様子だった。

六郎
「父上達は退路を知らずにここに釘付けにされておられたようですが、我らは退路を知っております! ですから……」

平馬
「お前が退路を知っていたら何だ! 足を怪我している者を伴ってどうやって逃げるんじゃ! 追っ手を防げぬ以上は追いつかれてしまえば同じ事ではないか! それとも何か、お前はここで信一郎様を見捨てて逃げろとでも申すか!」

六郎
「そんな事は申しておりません!」
 信二郎は不毛な言い争いになりつつある事を察し、六郎を制する言葉を発した。

信二郎
「六郎! もうよい!」

六郎
「えっ……!? しかし……!」
 信二郎の制止は六郎にとって意外だったらしく、六郎は言葉を詰まらせた。
 これにより言い争いにわずかな静寂がもたらされたが、今度は与左衛門が割り込んできた。

与左衛門
「お話し中失礼します。西より敵の増援、少なくとも100がこちらを目指しております」
 信二郎は、与左衛門の報告を聞いた父と平馬がにわかに顔を青くしたのを感じた。

 
 現状、父の手勢18人は鉄砲3丁に弓1張を所持しており、ここに信二郎の手勢12人と鉄砲2丁が加わったところだったが、父の手勢の鉄砲3丁は連射により過熱し切り、銃の内部にも発砲時に出る煤(すす)が溜まり、通常の大きさの弾が込められない状態にまでなっていたために、信二郎の手勢の2丁と交代する形となっており、数としては減っていた。
 3丁は雪で冷却しており、いつかは再射撃が可能となるが、その頃には2丁が過熱を迎えるため、5丁あっても同時に射撃はできない状態である。

 
 弓の方も、父の手勢は2張を所持していたが、1張は既に弦が切れており、残る1張も弦が切れるが早いか矢が尽きるが早いかといったところであった。
 増援の敵100もさる事ながら、現在食い止めている40の敵の相手すら余裕が無い状況である。槍も合わせて6本しか残っておらず、もはや敵が突撃に移らない事を願うばかりだった。だが増援の100人が敵に合流すれば敵の突撃が始まるだろう。

信二郎
「弟……信一郎だけでも先に逃がしませんか?」

平馬
「……無理だ。信一郎様は既に敵に面が割れている」
 面が割れる、つまり敵に顔を覚えられ、積山家の嫡男(ちゃくなん。当主の跡継ぎ)だという事もおおよそ知られているという事である。おそらく弟は追っ手に対して名乗りを上げたのだろう。

 
 信二郎が、仰向けに寝て手当てを受ける弟を見ると、弟は右の脛(すね)の骨を銃弾に貫かれたらしく、足は折れ、巻かれた包帯は鮮血に染まっていた。父や信二郎に似た顔は激痛に歪み、寒気の中ながら汗だくになっている。
 左肩も関節が外れた様子である。弟が乗っていた馬がいないのを見るに、乗馬した状態で受けた銃弾が右足を貫いた後、乗っていた馬に突き刺さり、馬が倒れた事で弟は左肩から地面に叩き付けられたのだろう。

 
 戦での勝敗が動かぬものとなった今、敵の武士達にとってみれば、ここで手柄を挙げるとすれば名のある者を討ち取るのが手っ取り早い方法である。積山家は小さな領主とはいえ立派な武士であり、弟はその跡継ぎであるばかりか、大名の重臣の血縁者でもある。討ち取ればそれなりの手柄だ。
 しかしこの負傷した弟を置き去りにして動ける者だけで逃げてしまえば、その後に弟の血縁である主君に敵視される事は目に見えている。敵も内部分裂を狙って、置き去りにした事実を振りかざして来るだろう。このままではどう転んでも積山家が滅びる結果が待っている。

 
 負傷した弟をかばいながらここに追い詰められた父が、せめて置き去りにした事実を作らぬために、弟と共に討死するという選択をしようとしていた事は、積山家を守る意味では間違った判断ではなかった。
 だがそれを知らぬ信二郎が手勢と共に合流してしまった事で、ここに積山家の一族郎党が揃ってしまい、父の判断の意味が薄れていた。

 
 弟を逃がさなければ積山家は滅びる。だが敵に弟を逃がす気はない。おとり部隊を作って敵を食い止めたところで、直接戦えばその中に弟がいない事を敵に悟られ、おとりを素通りされて少人数で逃げる弟らが襲われる事となる。かといって全員で逃げたところで、逃げる速度を歩けない弟の運搬に合わせれば、たちまち敵に追いつかれて全滅するだろう。
 今ここで敵に寝返ったとしても命の保障はなく、寝返りに成功しても敵方に留め置かれるので故郷への帰還は叶わないだろう。そればかりか、寝返りという重い罪のために、故郷に残した積山家の女性達は元の主君によって処刑される事となる。
 そうなれば、積山家が弟を生かしたまま、ここを切り抜けるための答えはひとつである。

 
 誰かが弟の身代わりになって死ぬしかない。

信二郎
「……」
 その場の誰もが、もはやどうにもならないとばかりに黙り込んだ。
 だが、この場にいる積山家の一族の中では、唯一、信二郎には選択肢が残っていた。
 信二郎はまだ敵に姿を見られていないため、信二郎がここから逃げたとしても、父が弟と共に死んでしまえば、弟を置き去りにした事実を敵に主張される事はない。
 何より、自分だけ逃げおおせられれば、自分を冷遇した父と、自分の立場を奪った弟を消し去り、信二郎は晴れて積山家の当主になれるのだ。

 
 一陣の風が吹き、信二郎の目の前を大粒の雪が通り過ぎた。風に巻かれた雪は空中で砕け、白い粉となって灰色にかすむ空へ昇って行った。
 信二郎は今も父を恨む気持ちを持っていたが、その雪の粉を見た時に心のどこかが揺らいだような気がした。
 凍てつく風がなおも肌を刺し、耳に高い音を吹きつける中、その心の揺らぎを胸に、信二郎は父に向けて話しはじめた。

信二郎
「……でしたら、父上は信一郎を連れて逃げてください。その間に私が、信一郎の鎧兜を着て敵を引き付けます」
 信二郎は自分の周囲に吹いていた風の音が止まるのを感じた。しかし、雪は変わらず信二郎たちの周囲を舞っていた。
 信二郎の言葉に、六郎と六郎の父平馬と、そして信二郎の父左門が一斉に、ぎょっとした様子で信二郎の方を見た。
 静寂が訪れる。それはほんのわずかな時間だったが、信二郎は不思議と長く感じた。

左門
「……急に口を開いたと思ったらお前はっ……お前は自分が何を言っているのか分かっているのか……!?」
 静寂を破り、父が驚きとも焦りとも怒りともとれる声を上げる。

信二郎
「私は、私が信一郎の身代わりになると申しております」

左門
「身代わりで済むなら初めから儂(わし)がやっておるわ! 粋がるのも大概にせよ!」

信二郎
「先ほど平馬様が『信一郎は既に敵に面が割れている』と仰せになりました。父上は、ご自身を含めた誰かでは身代わりになれないと理解していたからこそ、こちらに立てこもっていたのではありませんか?」
 そう話した時、信二郎は父が一瞬平馬を睨んだのを見た。

信二郎
「私は信一郎とは顔も背格好も声も似ております。信一郎の鎧を着れば敵を騙す事ができましょう」

六郎
「お待ちください! 信二郎様はそれで良いのですか!?」
 六郎が震え声を上げる。

六郎
「助けられた恩を返す為なのは存じております! しかしそこまでする必要があるのですか!」

左門
「助けられた恩だと……?」

六郎
「この男のために信二郎様は冷遇され、惨めな思いをさせられたのではありませんか! なぜそこまで命を懸けるのです!」

平馬
「口を慎め六郎! 誰の前だと思ってるんだッ!」

六郎
「見捨てて我らだけで逃げてしまえば、こんな境遇もこれ限りではありませんか!」

平馬
「黙れ六郎ッ! しゃべるなーッ!」

六郎
「何の利益があってこんな男を助けると言うのですかッ! 信二郎様ッ!」

平馬
「黙れーッ!」
 平馬が閉じた鉄扇で六郎の兜を横合いに殴りつけ、六郎は倒れ込んで雪の上を転がった。

信二郎
「六郎……!」
 言葉を止めてうずくまる六郎の横では、平馬の荒い息が白く曇り、雪が混じる風の中へと溶けていた。

左門
「……」
 一方の父は、怒る様子なく黙り込んでいた。冷淡な雪景色に銃声が響く。

信二郎
「……父上。早くせねば敵の増援が来ます。もはや私が死ぬか信一郎が死ぬかです。どちらがお家の存続に大事かお分かりでしょう。私に信一郎の鎧兜をください」
 信二郎の言葉を聞いた父は少しの間、険しい顔で黙っていたが、やがて観念したように一言つぶやいた。

左門
「……勝手にしろ」
 そうして父は信二郎に背を向け、退却の支度に取り掛かった。

信二郎
「ありがとうございます」
 信二郎も父から視線を外し、起き上がりかけた六郎に声をかける。

信二郎
「……すまない、六郎。お前は父上と一緒に信一郎を守りながらここを脱してくれ」

六郎
「えっ……!? 嫌です! 共に生きようと二人で誓ったではありませんか! 私も共に参ります!」

信二郎
「駄目だ、お前は生きてくれ!」

六郎
「…………なぜ……なんでッ……! 信二郎様……!」
 それ以上言葉を発する事が出来ない様子で泣き崩れた六郎に、信二郎は背を向け、部下達に準備を指示しつつ、鎧兜を弟のものに着替えはじめた。

 
 敵はまだ突撃の素振りを見せない。今から急に突撃が始まっても、敵とこちらの間には険しい上り坂があるため、諸々の準備はどうにか間に合う事だろう。そうなれば今注意すべきは、敵が退路の方に回り込んで来る事である。

与左衛門
「……信二郎様、私も連れて行ってください」
 準備を急ぐ信二郎に対し、唐突に与左衛門が話しかける。

信二郎
「与左衛門か」
 信二郎ひとりだけで敵に突撃するのはあまりにも不自然であるので、信二郎と共に死ぬ決死隊をこの場で編成するつもりではあった。だが与左衛門は元は余所者で、頭もそれなりに働くので、隙を見て逃亡するのではないかと信二郎は考えており、決死隊に入れようとは思っていなかった。

与左衛門
「……今だからこそ申し上げますが、私はかつて敵方の侍でした。私は負け戦で仲間も親兄弟も見捨てて逃げて、あなたがたの村に迷い込んだのです。
 身寄りもなければ素性も知れない私でしたが、あなたがたは迎え入れてくださいました。……このような私が今日まで生きて来れたのは、ひとえにあなた方のおかげです。このご恩に報いるためにも、私も信二郎様と共に参りとうございます」

信二郎
「……わかった。痛み入る」
 信二郎らは戦う準備に並行して、与左衛門らによる決死隊の編成を急いだ。
 走れないほどの重傷を負っている者には止めを刺し、それ以外で怪我等のために退却の足手まといになりそうな者や、家族や職がない等の断る理由の少なそうな者に見当をつけて冷酷に決死隊へ編入させ、決死隊の人数を、敵が把握しているであろうこちらの人数に近づける。
 犠牲にする者達も元は同じ村の者なので哀れなところではあるが、領主たる積山家の行く末には村の運命もかかわる以上、迷っている場合ではなかった。

 
 人数のほか、敵は父左門の姿も雪の中で遠目ながらに見ているであろうため、六郎の父平馬が左門の身代わりとして決死隊に入る事となった。
 さすがに左門と平馬の武装まで取り替えている暇はないので、左門の前立(まえだて。個人を識別するために兜の前面につける飾り)を平馬の兜に取り付けて一応の扮装とした。
 さらに、こちらの人員の移動を敵に勘ぐられないように、崖の上には死んだ者の笠などを置く。退却する父の部隊では蓑(みの)を引かせた馬に最後尾を行かせ、少しでも足跡が消えるように手はずを整えた。

信二郎
「……どうにか準備が間に合ったな」
 弟の鎧兜に身を包んだとき、信二郎は父がこちらをじっと見つめているのを感じた。
 だが信二郎が父に視線を向けると、父は信二郎から目をそらして背を向け、やがて部隊の列を整え、弟と、なおも泣く六郎を伴って退路の方へと進み、やがて降りしきる雪の中に消えていった。

 
 それが信二郎が最後に見た、六郎と弟と、そして父の姿となった。

 
 父らの撤退を見届けながら、信二郎と平馬で決死隊の隊列を整える。
 残った2頭の馬で信二郎と平馬が騎馬に、残りの11人は徒歩(かち)になり、信二郎を先頭に、平馬を最後尾にして徒歩を挟んだ隊形で、敵から見えない位置で待機した。
 あとは信二郎の命令ひとつで敵に向けて飛び出すだけである。

平馬
「信二郎殿。六郎を説得してくれた事、感謝いたす」
 頃合いを見計らっている時、馬上の平馬が、同じく馬上の信二郎に話しかけた。

平馬
「……六郎は不出来な息子じゃったが、決して嫌いではなかった。信二郎殿に非は無いが、六郎は信二郎殿の付きだったのでな……下手に目立てば主家から敵意を向けられるかもしれぬと思ってのう……うまく可愛がってやれなんだわ……」

信二郎
「……」

平馬
「……六郎はわしを恨むじゃろうな。だがわしはもはや六郎以外の男子を失った身、今はせめて六郎が生きてくれれば本望じゃ。重ねて申すが、六郎を逃がしていただいた信二郎殿には本当に感謝しておる」
 信二郎は平馬の言葉を黙って聞いていた。決死隊の徒歩11人は緊張しているらしく、誰の言葉も無かった。

与左衛門
「ふもとの敵40がこちらに突撃を始めました。100の方もふもと近くの平地まで接近しております」
 与左衛門が敵の接近を報告する。敵の目のほとんどがこちらを向いた瞬間であった。

信二郎
「よし。笠を落とせ!」
 人数の偽装のために崖の上に置いていた笠を、紐を使って自分達の方向へと落とし、敵の視線をこちらに誘導する。
 笠が落ちると共に信二郎は号令を掛けた。

信二郎
「続けーッ!」
 信二郎は一喝と共に崖からゆるやかな下り坂へと駆け出した。決死隊も掛け声を上げて続く。
 崖を抜けたことで視界が開け、目の覚めるような白い景色が眼下に広がる。上から下へ降っていた雪が加速に従って手前から後ろ側へと過ぎてゆくようになり、冷たい風が、切り裂くように温度を奪いながら顔をなでてゆく。

 
 風の音と馬や人が走る音が斜面に響く中、信二郎を先頭に、決死隊は敵40を右手に見ながら通り過ぎ、坂のなだらかな場所を一気に駆け下りる。通り過ぎたのと同時に、敵40に混じる騎馬武者の数人がはっとした顔でこちらを指さして何か叫び、敵の足軽達がこちらに槍を向けなおしたのが見えた。もう一方、左手にあった森にも30人程度の敵が驚いた様子でこちらに視線を合わせ、慌てて立ち上がる姿が見えた。退路を逆行していた時に見た、退路の方へ回り込もうとしていた敵部隊だ。

 
 どちらの敵もこちらを父と弟の手勢と完全に見間違えたようだ。これで彼らは、しばらくは父らが進む退路の方へ向かう事は無いだろう。
 だがこの後も、信二郎が戦場から逃げる姿勢を敵に見せたりすれば、敵の一部あるいは多くが逃げ道へ先回りしようとして、父らが進む退路へ向かってしまう事は充分考えうる。もう退く事はできない。

 
 そのまま坂を降り、雪が白く染める森を右手に見ながら横を抜ける。森を抜けた先には開けた雪原があった。目の前が一気に白く明るく広がる。その先の遠くでおぼろげに、敵100がこちらに向けてずらりと鉄砲を構えた様子が見えた。信二郎はすぐさま決死隊の進路を左手方向へと変え、立ち並んでいた枯れた木々を盾にして敵100の横合いへ時計回りに回ろうとした。
 その時、敵100の前列がまばゆく発光して幾多の破裂音が空気を振動させた。横一列の一斉射撃だ。だが信二郎らがまっすぐ突進して来るのを想定していたらしい射撃は、急に進路を変えた決死隊には当たらなかった。銃弾のいくつかは決死隊の方へ飛んできたが、一部は足元へ落ち、一部は枯れ木に当たって小さな火花となった。

 
 敵の40と30と100を全てかわし、注意を引く事に成功した信二郎だったが、このまま敵の近くを動き回り続けていても、決死隊がおとりである事を敵に悟られてしまうだろう。信二郎の決死隊は、敵から見れば『追い詰められた積山信一郎とその手勢が自暴自棄になって捨て身の突撃を仕掛けた姿』でなければならないのだ。
 立ち並ぶ枯れ木を抜けて開けた雪原へと走り抜けると、右手に先ほどの敵100が雪原の中央に見えた。敵は全ての鉄砲を撃ち放ってしまったらしく、次の射撃の準備に取り掛かっている所だった。
 この調子でもう一度突進と方向転換をしたとしても、敵はまた一斉射撃してくるほど愚かな相手ではないだろう。突撃を掛けるなら今しかない。

 
 信二郎は意を決して敵100に進路を定め、一気に直進を開始した。
 先ほどより距離が詰まった事で、降りしきる雪の向こうの敵の姿が次第にはっきりと見えるようになった。敵はこちらの突撃に応戦するつもりらしく、槍を持った者を前に出しつつある。あの中へ斬り込めば、もはや生きて帰る事は叶わないだろう。そこへ向けて、信二郎は最期の突撃を開始した。

信二郎
「掛かれええぇーッ!!!」
 決死隊の全員が雄たけびを上げ、武器を振りかざして信二郎の後を追う。

 
 空の雲が途切れたらしく、眼前に広がる雪原は白く明るく輝いていた。その純白の景色の中に降りしきる大粒の雪は、駆ける信二郎たちの周囲を風に舞う桜花のごとく踊り、鎧兜に当たったいくつかの粒は粉々に砕けて散らばり、きらきらと光りながら後方へ過ぎていった。

 
 信二郎が産まれた日も雪が降っていたという。父は産まれたばかりの信二郎を見るなり『積山信一郎長高だな』と言ったので、母は笑って『それは元服後につける名前ですよ』と返したと、生前に母が話していた。

 
 信二郎は馬で駆けながら槍を高らかに掲げ、視界の左右に列をなす幾多の敵の中央へと速度を上げ、そして大声で名乗りを上げた。

信二郎
「うおおおおおーっ! 遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 我こそは、積山家が嫡男――」

信二郎
「――積山信一郎長高なり!!!」

 
 信二郎以下13名の討死の報が父の手勢の元に届いたのは、父らが無事に城まで退却を終えた時だったという。

 
 積山家はその後、信二郎らが自らの命と引き換えに積山家を守った功績を称えて、特に信二郎を戦の神に祀(まつ)り上げた。
 信二郎の神格化は一族郎党をまとめるための政治的意図が多分に含まれていたものだったが、信二郎あらため天之美葉命(あまのみはのみこと)を祀るその小さな神社は、その後に幾多の戦禍や災害を経験するものの、その度に積山一族や地元の人々に守り抜かれ、絶える事なく現代まで存続する事となった。

信二郎
「……思えば遠くに来たものだ」
 長い年月の後に、ある理由から少女の身体を借りて再び人間となり、異世界に渡っていた信二郎は、煉瓦(れんが)造りの冒険者ギルドの建物の、冒険者でにぎわう明るい部屋の中から、縦長のガラス窓の外の、夜の闇と街の明かりが広がる風景を見てつぶやいた。
 寒さを一段と増してゆく季節は指の動きを鈍らせ、建物の中でも息を白くした。冬の夜の隙間風が、つややかな漆黒の長髪と季節を問わず短いスカートを揺らす。

 
 神となって数百年という月日が流れるうちに、信二郎は人としての感情の多くを失っていた。
 だが再び人間となり、異世界で冒険者となって様々な人と関わり助け合ううちに、人としての感情を取り戻しはじめていた。それに伴い、かつての家族や親しかった人々の事もおぼろげに思い出すようになっていた。
 信二郎は不確かな記憶を繋ぎながら、家族連れの影が街灯の薄明かりに照らされて夜の道をゆく景色を、ぼんやりとガラス越しに眺めていた。

 
 その日は雪が降っていた。

 
泡雪 終


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